夜勤の救急外来は、時々、秒針の音がやけに大きい。胸痛。顔色不良。血圧は不安定。
「一刻を争う」。身体が先に動く。私のなかの手順は、心筋梗塞を最優先に想定して中核病院へ
「一刻を争う」。身体が先に動く。私のなかの手順は、心筋梗塞を最優先に想定して中核病院へ
――紹介状には〈心筋梗塞疑い〉。検査を積み増して時間を失うより、設備と人のそろった場所へ託す。それが合理だと信じていた。
後から知らされた。結果的には大動脈解離であった。にもかかわらず、心臓カテーテル検査に進んだという。カテーテルが脆弱化した大動脈壁を破綻させたのか、それとも異常高血圧に押されて解離が破綻したのか、因果の線ははっきりしない。ただ、救命には至らなかった。
受話器の向こうで言葉が沈み、こちらで時間が止まる。
後日の場。先方は静かに言う。
「一般内科でも〈解離疑い〉として送るべきでしたね」
「一般内科でも〈解離疑い〉として送るべきでしたね」
えっ、そこ?
胸の内で言葉が反響する。専門科的な立場で再評価をせず、最初のラベルをそのまま信じて心カテに踏み込んだこと――その重さは問われないのか、と。
そして気づく。そういう責任のなすりつけあいが常に医療現場では行われている。誰かの判断の“最初の一滴”に、後から無限の意味が付与される。
救急医療には、見えない力学がある。スピードは思考を削り、ラベルは視野を狭める。〈心筋梗塞疑い〉の五文字は、受け手の脳に錘のようにぶら下がり、別の可能性――解離や肺塞栓や、あの嫌な背部痛――を鈍らせる。
本当は、私たちが手渡すべきは〈確定診断〉ではなく〈不確実さ〉だったのだ。鑑別の幅、陰性所見、迷いの濃淡。ラベルではなく、その影だ。
あの夜の私に戻れるなら、紹介状の余白にこう書く。
「鑑別:AMI/解離/PE。左右差なし?背部痛の性状は?新規AR雑音なし?“解離は除外できず”。」
たった一行でも、受け手の錘は少し軽くなる。心カテの前に「解離は?」ともう一度つぶやけたかもしれない。
責任は、押し付け合うより、不確実さを分け合うほうが救いに近い。迷いを言語化し、次の手に渡す。
受け手はラベルをいったん机に置き、目の前の身体に耳を当て直す――“胸痛の夜の作法”は、きっとその往復にある。
秒針の音は今日も大きい。だから私は、次の紹介状の余白を広げておく。ラベルの呪いが薄まるだけの、わずかな余白を。