ノートと鉛筆からタブレット学習への移行が進む中、書き取りには学習効果がないので行うべきではないという意見が昨今増えつつあります。しかし、それは俯瞰的な視点に欠けた安易な結論だと私は考えます。
日本古来の座禅や写経を絡めて考えることで、書き取りや反復練習の意義について、より深い考察が必要ではないでしょうか。
たとえば、日本古来の武道において、型を忠実に繰り返す稽古は、思考の整備や精神的安定、さらに生活習慣の再構築に寄与します。これと同様に、現代のマルチタスク社会では、毎回、物事を一から考え、毎回異なる方法で行うのは非効率な場合があり、実績に基づく有効な「型」を習得し、それを固定化して活用する能力も必要です。この能力が培われていないために、課題を抱える人々が増加しているのではないかとも感じています。
伝統的な実践が持つ精神的側面を取り入れることで、書き取りや反復練習は単なる学習法を超え、内面の成長や集中力の鍛錬といった観点から再評価されるべきです。
座禅の視点で書き取り学習を考えると、座禅は「今この瞬間」に集中する修行であり、無念無想の境地を目指すものです。この考えを現代の学習に応用すると、書き取りには座禅と同様の意義があるように思えます。高度情報化社会の情報過多の中で心の静寂が失われ、集中力の低下が懸念される現在、書き取りは手を動かすシンプルな行為を通じて、心を落ち着け、学習内容に深く集中する機会を提供します。さらに、手作業は脳の発達や成長に寄与することが広く認識されています。情報氾濫や環境的雑音に対する精神的安定を確保する基盤として、書き取りはその価値を再確認するべきです。このような集中状態は学習効率を高めるだけでなく、心の平静をもたらす効果が期待できます。近年、この集中力を養えず、学力低下に苦しむ学生が増えている可能性もあるのではないでしょうか。
また、写経の視点で書き取り学習を捉えると、写経は経典を一字一字丁寧に書き写すことで仏教の教えを体得しつつ、精神を鍛える修行です。写経において、同じ内容を繰り返し書く行為は教えを身体に染み込ませ、理解を深めることを目的としています。これと同様に、書き取りは単なる記憶の手段を超え、深い学びを支える手段となります。写経が内省と自己改善のプロセスであるように、書き取りも自らの理解を深め、表現力を高める機会になり得ます。また、「一字一字に心を込める」という写経の姿勢は、現代の学習においても重要な教訓となるでしょう。
座禅や写経の精神性を取り入れることで、現代における書き取りや反復練習は、学習の枠を超えた深い意義を持ち得ます。たとえば、学校教育において詩や座右の銘を心を込めて書く体験を通じて、内容への理解と感情的なつながりを育むことができます。また、手書きはデジタル環境で失われがちな「時間をかける価値」を再認識する手段となります。繰り返し練習を単なる記憶作業と考えるのではなく、心の鍛錬の場として位置づけることで、書き取りは精神の集中や心の平穏を得るための方法として、現代でもその輝きを失わないでしょう。
もちろん、書き取りや反復練習に頼りすぎることも、全く行わないことも極端であり、その中庸が大切であることは言うまでもありません。