2025年6月6日金曜日

ウクライナから何を学ぶか

ウクライナは、かつて旧ソ連の核兵器を大量に保有していました。しかし1994年のブダペスト覚書により、ウクライナは核を放棄し、その見返りとしてアメリカ、イギリス、ロシアから「主権と領土の一体性の尊重」という安全保障の約束を得ていました。

しかし、2014年にロシアはクリミアを併合し、さらに2022年には全面的な軍事侵攻を開始しました。国際的な約束は破られ、現実の戦火がウクライナの地に降り注いでいます。

この事実は、核非武装が必ずしも安全保障に繋がるわけではないということを示しています。敵国に「不可侵の約束」をさせるという建前は、実際には指導者の意思一つで反故にされる不安定なものであり、そもそも安全保障の根幹を他国の誠実性に委ねるという姿勢自体が、現代の国際政治においてはあまりに理想主義的すぎるのかもしれません。

現実には、核武装を放棄した国が通常兵器を大量に購入させられ、結果として「核を持たせない」こと自体が、特定国の軍需ビジネスを潤す仕組みになっているという見方もあります。

本音では「敵にも味方にも核を持たせたくない」が、建前では「世界の核廃絶」を掲げる。これは安全保障よりも経済戦略と覇権維持が優先されているにすぎない、という側面もあるでしょう。



ウクライナが約束に甘んじることなく、飛来する無数の核弾頭を打ち落とすような通常兵器に莫大な費用をかけていれば、戦争は防げたかもしれません。しかし、その道を選んだとしても、多くの困難が伴ったことでしょう。

通常兵器への莫大な投資は、ウクライナ経済に大きな負担をかけ、国民生活に直結する予算が削られることになり、国民の不満が高まった可能性も考えられます。また、ウクライナが軍事力を急速に増強すれば、ロシアとの関係はさらに悪化し、外交的な解決の余地が狭まったかもしれません。そして何より、通常兵器による抑止力には限界があり、ロシアのような核保有国との対立において、通常兵器だけで侵攻を完全に防ぐことができるかという点には疑問が残ります。

ブダペスト覚書という国際的な約束に頼ったことは、結果的に悲劇を招きましたが、それ以外の選択肢もまた、非常に難しいものであったと言えます。ウクライナの置かれた状況は、国際社会における安全保障の難しさを浮き彫りにしています。


核武装は、確かに倫理的に批判の対象になりやすいものです。しかし現実を見れば、歴史上、明らかな核武装国同士が直接戦争を起こした例はありません。あるのは、非核武装国を舞台にした代理戦争だけです。核兵器の使用は核武装した国が核非武装の国に使った例だけです。核兵器の存在が均衡をもたらし、最悪の戦争を未然に抑止しているという皮肉な現実もあるのです。

日本においても同様です。理想主義に基づいて核武装を否定し、専守防衛に徹していますが、果たしてそれで国民を守りきれるのでしょうか。現場の自衛隊員の本音は、おそらく「その理想のために自分たちが無駄死にすること」ではないでしょう。「抑止力によって、戦争そのものを防ぐ」という現実主義こそが、彼らの真の願いではないかと考えます。

そして、その理想主義的な防衛方針は、通常兵器の軍事費増大を招き、結果として国民の税負担拡大や物価高騰にもつながっていくことも懸念されます。核武装は、長期的に見れば通常兵器の大量購入よりも圧倒的に安上がりであるという指摘もあります。にもかかわらず、それを選ばせない構造が国際社会に根強く存在しているのです。ウクライナの悲劇は、こうした構造の犠牲になった一例にすぎないのかもしれません。

やがて中国の軍事力は世界最大どころか、一国で世界の半分以上の軍事力を持つことになろうと思います。アメリカの非核友好国の核の傘方式は実はアメリカの負担を増大させているという見方もあり、核武装友好国を増やすことで、東西冷戦の軍事力バランスを安定化させることに寄与する可能性があると考えることもできます。